1989年(平成元年)12月12日 生まれる
福島県いわき市出身の父と、愛知県名古屋市出身の母の間に次男として誕生
(母の実家の近くの病院で生まれたため、出生地自体は名古屋市港区です)

父・母共に、戦争の爪痕も知らない1960年代生まれ
自らも、ベルリンの壁 崩壊直後に生まれ、
物心ついた頃には既にソビエト連邦連邦も崩壊していたため
イデオロギー対立を肌で感じたことのない平成第一世代
生後1ヶ月で、両親と兄が暮らしている社宅(武蔵小杉)へ戻る

父は会社員(2020年に定年退職)、母は元教員の専業主婦という当時 典型的だった性別役割分業家庭で育つ

【「ふるさと」のない幼少時代】
世田谷に初めて引っ越したのは、2歳の時
当時住んでいた社宅の改修の関係で、経堂駅と桜上水駅の中間にあった社宅へ引っ越す

  
(当時、兄が通っていたマダレナ・カノッサ幼稚園 前にて)

その後、また改修による引っ越しが必要となり、
桜新町の社宅へ引っ越すも
父の転勤の関係で、3ヶ月で名古屋への引っ越しが決まる

当時は3歳だったものの幼稚園には通っていなかったが、
小学校1年生だった兄が1学期終了で転校となるのを見て、
自分も将来学校を転々とすることになるのかなと幼心に感じる

引っ越しの多い幼少期を送っていたため、
大きくなっても出身地・地元を聞かれると言葉に詰まっていた
自らの地元を世田谷だと定義するようになるのは未だ15年以上先の話

【桜新町に落ち着いた小・中学生時代】
5歳になり、再度 桜新町の社宅に戻り、
運良くその後は桜新町に10年住むこととなる

桜新町1丁目にあるミッションサンタクララ幼児部にお世話になった後

  

桜町小学校に入学
没個性的な黒と赤のランドセルを見て、こんな生き方はしたくないと思い
当時では非常に珍しい青いランドセルを選ぶも、
生意気に見えたのか入学して一瞬でいやがらせに遭う

3歳上の兄がいたことから自分が進むと有利な道になんとなく想像がつき
いわゆる”次男”として要領良く過ごすも、
学校や親戚に優等生の兄と比較され怒りを覚える

当時から誰かに任せるよりも自分で責任を持ちたがり
”長”と名の付く機会には全てに手を上げ、
学級委員(代表委員という名前でした)や各種委員長を務める

4年生の時、授業の中のコメントカードで
「そのべくんは社会が得意なので政治家になれると思います」と
書いてあったカードを見て、当時は
「ぼくなんか普通の生まれの人間が政治家になんてなれるワケがない」と気にも止めなかった

小学校6年生にして初めて、母が兄のために買ったはずの福澤諭吉翁の著した『學問ノスヽメ』という書物に出会う
この本で区の読書感想文のコンクールにも入賞する

深沢中学校に入学
兄も桜町小→深沢中だったため、中学受験は考えず地元の中学校へ進む

初めて学級委員になれず落ち込む
初めての定期試験で自分が学年で一番でないことを知り
、勉強することに目覚める

大手学習塾で全校舎トップになるも、ジュニア数学オリンピックに歯が立たず
理系でトップは目指せないことを悟る

卓球部に所属し、団体・個人と都大会にも出場し、生徒会役員、生徒会長を務め
表では優等生扱いされるも多くのプレッシャーと反発に苛まれる

この時期、周りに迷惑をかけたことから、その後は人のためになることを考えるようになる

【福澤諭吉に感化され、慶應義塾の門を叩く】
以前より感化されていた『學問ノスヽメ』の影響、
また福澤諭吉翁が旧暦の12月12日生まれ(そのべは新暦の12月12日)であることにも感化され、
社会を変えるべく、大学は慶應義塾大学の総合政策学部で学びたい思いも生まれ、

慶應義塾高等学校に入学

同じ時期、社宅がなくなるので数百メートル先の用賀のマンションへ引っ越す
引っ越し前も後も、桜新町駅と用賀駅の間のエリアのため生活圏はあまり変わらない
ここから今まで人生の約半分を用賀で過ごすこととなる

少なくとも首都圏中から将来の先導者(リーダー)が集まっていると思っていたが
良くも悪くもあまりにも自由な校風で、本来あるべき先導者養成塾とするべく、生徒会の門を叩く

早稲田大学の附属校や開成高校等の生徒会との交流を経て、
他校は既に環境教育・起業家教育等の先進的な取り組みをしている中、
改めて自らの学校が後塵を拝していることに愕然とし、学校改革を決意

生徒会長選挙に立候補するも、二次投票で逆転され落選

これまでは本人の努力こそが将来を決定付ける要因だと考えていたが
公立中学校時代には考えられない、恵まれた環境を生まれ持っている人が多数存在することを目にし、
世の中の格差と、努力よりも環境要因の強さを目の当たりにする

政治家の三世・四世をはじめ、生まれだけで社会の意思決定に参加が約束されている特権階級の存在、
そして出自が将来を大きく左右するコトに疑問を抱くようになる

学校を変えるよりも自分が将来社会に影響力のある人物になるべく、
以降は自分自身が何者かになるために大学生に混ざって、インターンシップ等に積極的に参加する

また顧問との付き合いで始めた放送研究会の関係で、FM世田谷の学生向けの番組にてスタッフを務める

  
(世田谷区が出資しているFMのお手伝いをしていたため、学生代表として区報の表紙にも出ました)

高校生を受け入れている議員インターンシップを発見し、
高校卒業前の冬休み〜春休みに、渋谷区議会議員の元でお世話になる
初めて政治家になるという選択肢が自分のような一般人にも存在していることを知る

入学当初は、総合政策学部へ進学し、起業家を目指していたが
弁護士・起業家・政治家のいずれかの選択肢を広く目指せる可能性を考え、法学部法律学科へ進学

慶應義塾大学 法学部法律学科へ入学
法律学科へ進むも、法律の解釈論・過去の出来事の判断よりも
現実の社会に合わせて法律をアップデートをする、未来を切り開いていく方に憧れ、
早々に弁護士よりもイノベーターを志向し、当時流行りの学生団体やインターンシップに精を出す

旅行先の伊豆大島で自転車で自損事故を起こし、走馬灯は流れなかったものの、
自分の懐かしい風景が高校・大学のキャンパスの銀杏並木くらいしか浮かばず、
当時15年住んでいた世田谷に何の思い入れもないことに気付かされる

民主党が政権交代を果たし、世の中が変わっていくことに希望を抱くも、
時の政権による派遣法改正で、大企業(大手広告代理店)の電話取りのバイト(派遣雇用形態)ができなくなりクビを切られる
政治により、誰かの生活が変わることを実感する
(派遣社員の職務を限定することで、政府は正社員への転換を増やそうとしていたようですが、
派遣社員に任せていた庶務・雑務のために正規雇用をするはずもなく
結局、新入社員が巻取り、その会社ではその後、自殺者が発生して社会問題化します)

成人式で一番目立つ方法を考えた結果、世田谷区の成人式実行委員に応募し、新成人代表を務める

  
(実行委員の代表としての挨拶・ゲストとして来ていたウルトラマンとの2ショット)

横浜アリーナでのライブイベントを企画・運営し、
広報を担当する中で、インターネット・SNSが持つ影響力の強さに気付き、PR・広告業界での仕事を志望するようになる

大学3年次より、小林節 名誉教授の下、憲法を学ぶ
(その後も折に触れて、ご指導を頂きます)

【リーマンショック・東日本大震災で岐路に立つ】

大学1年次にリーマン・ショックが起こり、周りでも就職浪人が当たり前になる一方、就活自殺が社会問題化

就職活動の真っ最中、大学3年の3月に東日本大震災が起こり
福島県いわき市にいる祖父母・親戚は地震・津波で被災する

その後、被災地を訪れるも、少し前まで当たり前だと思っていた風景が一瞬で消え去ることを痛感し、
復興を、次の日本の未来を今の特権階級の政治家には任せておけないとの思いが強くなる

一方で、就職氷河期の影響も大きく、なかなか内定が決まらずとも、民間就職にこだわり、就職活動を続ける

就職を最後決めた時には既に”政治家”を将来の選択肢として意識するも、将来的に政治家になるにしても
世田谷区内の働き方の大多数を占める、都心へ満員電車で働きに行く経験がないまま
“区民目線” ”働く人のために”と言っても欺瞞でしかないと思い、あくまでも民間企業で働くことを目指す

(世田谷区に限らず、そのべの思う 現在の政治の世界の問題のひとつに、
 世襲だけでなく、”マトモに働いたコトのない人が政治家になる”という現象があります
 現に、多くの(特に若い)政治家の経歴を見て頂ければ分かりますが、学生時代から政治家の事務所に出入りして
 そのままその政治家の秘書になる(あるいは、大学院(ロースクール)卒業後そのまま選挙に出る)
 というパターンが常態化しています)

※価値観が多様化する時代、様々な働き方・社会での活躍が認められるべきですが、
 社会・議会への多様性の一翼を担っている、というよりも、政治家を目指すには、政治の世界で修行を積むべきと
 政治の世界が絶対視されている傾向があるように感じています
 あらゆる問題を扱う議会では様々なバックグラウンドを持つ人が集まるべきだと思いますが
 殊、政治(政局?選挙?)のプロフェッショナルだけでは
 現実に直面している問題をどう解決するか、適性な判断を下すコトはできないでしょう。

今後の日本や地域を考える上で、東京や世田谷以外の日本のことを知ろうと思い、
全国の地域活性化の活動に参加をし、南は熊本から、北は岩手まで実際に伺い、
さまざまなまちづくり・地域おこし活動に参加をする

同級生が卒業旅行に行く、就活浪人を決める中、現役での就職を目指し、卒業3ヶ月前の12月に
インターネット広告が主力のIT企業 セプテーニへの就職が決まる


(卒業式後、キャンパスのある日吉駅前にて)

【社会に出て、自分の無力さを痛感する】

学生時代にアルバイトやインターンを含め
社会人とやり取りをする経験も周りよりは多く、アプリの開発等も行なっていたため
今までと同じ生き方で通用すると思っていたが、入社2週目、配属初日で大きく挫折する

本当は学生時代に自分たちだけではできなかったWebサービスの立ち上げをやりたいと考えていたものの、
希望の部署からは少しズレた、垂直立ち上げ中のソーシャルメディア広告部門へ配属される

まずは態度を改めて挽回しようと、とにかく1年目はオフィスに一番乗りを心がける
(実際には役員の方が早い日も結構ありましたが)

また新興IT企業、かつ新たな部署ということもあり
1年目の入社直後よりサポートではなく最前線で責任を持って働く
2
年目には後輩の育成担当やチームとしてリードも任される

セプテーニ社、そしてソーシャルメディア事業では
・目標に対して、最短コースを定めて最速で走る
・マーケットのチャレンジャー戦略・リーダー戦略
・正解、前例は試行錯誤して自分でつくる
・自分なりの付加価値を付ける
を、意識する・身に付ける機会となる

その後、自分が政治に進むに当たって
今の環境以外にも異なるバックグラウンドの会社・働き方を経験したいという思いもあり
大企業・外資系・少人数のスタートアップのいずれかの環境に移ろうと考えていた時、
声がかかった Twitter Japanへ転職を決意


(転職直後、サンフランシスコにてSepteni Americaのみなさんと)

【予想外の外資系へ転職、直後の公認発表】

セプテーニ時代、ソーシャルメディア事業で培ったスキルを活かせ
且つ自分が望んでいた環境ということもあり、転職を決めるも、留学経験も、欧米文化が特に好きな訳でもなく、
単にIT業界のひとりとしてなんとなくシリコンバレーへの憧れが少しあっただけの自分が
思いがけず西海岸系のIT企業(の日本法人)へ勤めることとなる

   
(サンフランシスコでの全社カンファレンスにて、当時のTwitter CEO Dick Costolo氏との2ショット)

また社会人になってから一貫して、
働きながら学べる政治塾 日本政策学校に通い、
引き続きゆるやかに政治との関わりを続ける

自ら納税者となり、改めて税金が何に使われているのか疑問を抱くようになっていた頃に登場した
「みんなの党」へ都市型政党として期待を寄せるようになり、
当時、地元の用賀駅にて街頭演説をしていたみんなの党の候補者に出会い
都議会議員選挙のボランティアスタッフから再び政治に深く関わりを持つようになる

みんなの党と維新の会の合併協議が進む中、
個人の自由・経済の自由の両者を尊重する改革勢力がまとまるのであれば
自らもこれまで育ってきた世田谷区を政治家として変えていきたい、
また当時の最年少の区議会議員が35歳と10歳も上だったため、
平成生まれの一人として、新しい世代の声を反映させたいという思いで、維新の党の区議選候補者公募に応募する

公認決定に伴い、半年足らずで最終的にTwitterを退職することを決意
短期間ではあるものの、
・全ての人が自分の仕事領域に責任を持つ働き方
・自分に合わせて働ける働き方(性別・指向問わず家庭や自分の時間を持てる環境)
・時間や過程ではなく、成果が直接評価や報酬につながるシステム
・東京中心ではなく、最終意思決定機関や先端事例も国外にある環境
を経験出来たことは大きな財産になる

【平成生まれ、初当選 しかし2度の政党消滅】

25歳で立候補、法定年齢の最年少候補者として世田谷区議会議員選挙に立候補

当時の維新の党の改革姿勢への評価や、幼い頃からお世話になってきた多くの方の協力を頂き、
80人超の激戦の中、世田谷区政史上 最年少となる25歳4ヶ月で当選を果たす

当選半年後には維新の党に路線に対立が生まれ分裂する中、
民主党と合流して政権を目指すグループと行動を共にし、民進党の結党に参加を決める


民進党時代は、現職議員で唯一ニコニコ超会議へのスタッフとして参加する等
若者・学生向けの活動にも携わる

行政改革や規制緩和、原発ゼロ、憲法改正といった重要政策が民進党ではことごとくトーンダウンし、やりづらさも感じる中、
最終的には2017年秋には民進党自体が分裂し、実質的に解党状態となる

一度、自らを見つめ直す意味からも、政党を離れ、無所属で活動を行なう

【IT企業出身・最年少議員、保育士・父になる】

当選から約1年間、テクノロジー政策・行政の効率化を中心に政策を展開するも
基礎自治体の予算の半分以上を占める福祉分野のお金の流れを変えなければ、行政が変わらないことを実感

また世田谷区の待機児童が日本ワーストワンを何年も連続で更新し続けている現状に
一石を投じるため、自らも保育士となることを決意

2016年4月に保育士試験を受験、合格率10-20%の1次・筆記試験には一発合格するも
2次試験のピアノで人生最低点を叩き出し、2次試験の合格率は90%と言われる中、不合格
同年12月に再試験、翌2017年1月に合格発表、1月より保育園での勤務も始め
3月には無事に保育士登録完了、以降保育士として現場にも出続ける

保育園の現場で体感した問題点、改善点や
働くママ・パパの発する現場の声を
世田谷区として支援・解決をするべく、経験を基に政策提言を行なう

時を同じうして結婚し、2018年春には第一子が誕生、父となる

現在では、元IT企業のビジネスパーソンとしてテクノロジー政策に取り組むだけではなく、
世田谷区議会で初めての保育士としての専門性、また未就学児の父として当事者意識を持ち、
待機児童問題や幼児教育の質の向上、子ども・子育て分野にも特化した活動を行なう

2019年4月に向けた保育園入園選考に落ち、自らの家庭も待機児童となり
改めて当事者としてこの問題に立ち向かうことを決意

2018年、無所属を経て、改めて都民ファーストの会に入党
因習や慣例主義よりも個人の自由と多様性、
しがらみやバラマキよりも自由な経済・自由な競争を尊重する立場は一貫して変わらず、
小池都知事、東京都議団と共に、
世田谷区に横たわる保育待機児童をはじめとした喫緊の課題の解決を目指す

2019年の区議会議員選挙では、
新型コロナウイルスに先駆け
デジタルファーストを掲げ、
IT企業時代に培った経験を生かして
区役所のデジタル化や、学校/保育園のデジタル化に向けた政策提言を区議会の先頭に立って進める

2022年 第二子が誕生

改めて子育てファーストを掲げ、
保育の充実、母親前提となっている子育て環境からの転換
正社員・専業主婦が前提に組立てられている
昭和のままの子育て環境のアップデートを進めます